本質的な問題として、漁業は良好な自然の環境を前提にして成立するのに対し、工業は、この自然の部分を切り捨てても成立するという決定的な違いがある。そして、共存の道を模索することは大変難しいことも事実であろう。それと同時に、漁業に大きな問題が生じてきているのも事実である。それは後継者問題と漁師の高齢化の問題である。また、国際化の進展による魚介類の価格競争の問題などがある。
東京湾や大阪湾は工業と漁業だけの海かというと、そうではない。数千万人といわれる湾岸に住む人々の大切な住環境、生活の場でもあるわけである。そのような中で、人間が幸せになるには健康が第一であるということに気が付いた。その健康とは、一つに血液の状態がよく、栄養もバランスがとれ、心臓や肺臓など内臓の働きがよい、すなわち、体内環境がよいことである。もう一つは外部環境が大切だということである。公害の怖さは誰でも知っているが、空気や水が汚れていれば、どんなに体内環境のよい人でも健康ではいられない。貧酸素水の青潮で代表されるように、酸素がなくなってしまうと、生物が棲めない海になってしまう。生物も棲めない海とは、市民にとって何を意味するのであろうか。そのような汚い海なら、いっそ湾を埋め立ててしまえば、そういう心配はなくなるだろうと考える向きがあるかもしれない。だが、水温は夏に気温より低く、冬は高い。高温時には気温の急上昇を防ぎ、急降下するときは緩和させる。そして海は水蒸気によって適当な湿度を供給する天然のエアコンディショナーでもある。これを失って、果たしてこれまでのような快適な環境を保つことができるのであろうか。
さらに、言うまでもなく東京湾や大阪湾は食糧の供給源でもある。そして、目で見ても肌で感じても美しい水、清い水は緑とともに、人を心地よくし、心の安らぎを与えるものである。人間が人間として続く限り、それは不変の心理であろうと信じている。このように考えてくれば、漁師は魚だけとっていればいいということにはならない。なぜなら環境が悪くなって魚がいなくなれば、漁ができなくなるから漁師も要らないという理屈になる。漁師が生活できないような海のそばに住む人が、果たして本当の幸せと言えるであろうか。日本の三大湾ほど環境問題と漁業が不可分に結び付いている海は、世界中でもほかにないであろう。これらの湾を365日見続けているのは、この海で生活の糧を得ている漁師だけである。水が汚れて魚が棲めなくなればたちまち失業するから、環境には人一倍敏感なのは当然である。その意味では、漁師は海に対する全住民の見張り役、監視役といえるであろう。この環境問題を契機として、湾はどうあるべきか、湾の将来はどうなるのかなど、漁業とは関係のない陸の人々とも話し合って行かなくてはならないと思っている。
4. 漁民の視点で見た海のあり方
40年以上にわたる漁師としての生活は今も続いている。大学の土木工学科を卒業した息子らとともに、季節毎に追う魚の種類は違っていても船橋三番瀬を中心に現役で漁船に乗っている。そのような中で、海が有する環境の強靭さと脆弱さを観察してきた。
これまで、東京湾の環境破壊の要因は埋め立て造成とそれに伴う浅海砂の浚渫にあることは述べてきた。また、それだけではなく工業廃水や生活排水にも大きな原因があることも指摘した。これらの要因が複合して青潮や赤潮が閉鎖性湾の環境、特に生物生態環境を破壊することも確かである。これらの問題は、単なる書籍から得たものではなくまた、他人の受け売りでもなく、漁師という生業を通して日々の活動から得た総合的知見である。そのような状況の中で、かつて我々は漁業補償という形で県民の税金をいただいた。しかし、三番瀬の埋め立ても数十年も放置されたまま、今日に至っている。埋立地の造成が進まないならば、我々は千葉県に対して漁業補償費の返還を要請することを提案した。当時、船橋漁、業組合長であった私は組合員に諮って組合の意志としてその議決を得ようとした。個々の組合員にもそれぞれの理由があって、組合紛糾した。この漁業補償の返還という提案は、我が国の漁業組合制度が戦後新たに成立してから、全く予想もできない前代未聞の出来事であった。私の考え方とは、漁業補償費を単年度でそっくり一度で返却するというのではなく、東京湾での漁業活動をべースに、その水揚げ高に応じて、少なくとも10年から20年にわたって金利公約5%を返済していこうというものである。同時に、原資としての100億円からの漁業補償費のうち、半分を返済しながら、残りの50億
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